今日もうちのウマコが騒いでる

富山県魚津市にあるふれあい牧場フロンティア。3頭の馬とお空のビッグが繰り広げる日常をマンガにした絵日記ブログ。絶賛毎日更新!

オリジナルキーホルダー、ピンバッジ、マグネット、イヤリング等ウマコオリジナルグッズも販売中。収益はウマコたちの生活費に当てさせていただきます。

2021年01月

鳴き方1
鳴き方2


馬の鳴き声といえば「ヒヒーン」。
英語では「ネェーイ」「ウィニー」(???)と表現するらしいですが、日本ではやっぱりヒヒーンがよく使われますね。 
さて、馬の鳴き声ですが、状況に応じて鳴き方が変わります。
一般的に
高くいななく時(イメージで言うとヒヒーン)は遠くの仲間を呼んでる時
低く鼻を鳴らすのはご飯をねだる時 
短く叫ぶように鳴く時は瞬間的な痛みや遊びに誘う時 
などと言われていますが、ベースは同じでも馬によって全く鳴き方が異なるなあと思うのです。

ビバはうちに来た当初は上手に鳴くことができず、ビッグに教わったようなものです。
なのであまり鳴き方のバリエーションがなく、たいていは「ヒョヒョヒョン」と女の子みたいな甲高い声で可愛らしく鳴きます。
そのほかの鳴き声はほとんど聞いたことがないのです。
唯一鳴くとしてたら、気分を落ち着かせる時の「ブー」と鼻を鳴らす音くらいでしょうか。

そしてシルちゃん。彼女はほとんど鳴きません。
ほかのコたちがいなくなった時だけ、ものすごいビブラートを効かせた甲高く長〜い鳴き声をあげるだけ、

さらに今はお空のビッグですが、彼はうるさかった。
いつでもどこでも「ヒャーンコラーラー」と鳴き叫びます。
その代わりバリエーションはなく、声の大きさと長さを変化させます。なので、たいていは大音量ですが、ボスの前ではものすごく小さな声で「ヒャーンコララー」と鳴いていました。

そしてハクちゃん。
彼は一番鳴き方のバリエーションを持っています。
そして、一般的に言われている鳴き声の意味に沿ってはいるんですが、どれも微妙に少しずつ様子がおかしいのです。
どれひとつ馬っぽくなく、どちらかというとブタちゃんの鳴き声に似ているのです。
一番驚いたのは、ビバとシルに追いかけられた時のこと。
普段は断末魔の叫びのように掠れた声で「ヒー」と叫ぶのですが、 この日はなぜか
「プ、プピープー」
だったのです。
聞き間違いかと一瞬思いましたが、たしかにプピープーと鳴きながら全力疾走していました。
ハクちゃんは本当に馬なのだろうか、という疑いを強めた出来事でした。 

石になる1
石になる2


今年の豪雪で外へ出られなかったウマコたちを、順繰りにひき馬散歩に連れ出した日のことは以前お話ししましたが、
外へ出る=草を食べられる
という流れは万年通用するとどうやら勘違いしているようです。
冬になれば草は枯れる。雪が降れば枯れ草どころか地面も見えなくなる。
なんてことは理解することはなく、外へ出て飽きるほど草バイキングができた日のことが脳内を占めているようなんです。
なので、この時期何度外へ連れ出しても最初は期待でルンルン。
スキップしながら出かけていくのですが、帰ってくると別馬のような表情になっています。

先日もボスがビバに乗り、遊園地内を運動しに出かけたのですが、シルはボロもおしっこもして準備万端。
ハクちゃんは声が枯れるまで鳴きまくり、一緒に行きたいと駄々をこねていました。

なのでハクちゃん、シルの順にビバと運動に連れ出したのですが、当然草バイキングなんてありません。
颯爽と帰ってくるビバの横で、まるで石でも背負わされているかのような重い足取りのハクちゃん。
シルに至っては、石になっていました。

何度繰り返してもポジティブに物事を捉えるウマコたちを見ていると、この先長〜い間おんなじことで笑えるんだろうなあと楽しい気持ちになれるんです。

 

1
2


馬には馬にあった暮らし方があり、適した食べものがあり、可愛いからって人と同じにしてはいけないことってたくさんあります。
それは馬だけじゃなくてワンちゃんも猫ちゃんもどんな動物だって同じ。
そして、同じ馬だって種類や育つ環境によって適応能力は異なります。
人間だってみんな一緒ってわけではないので当たり前ですよね。
だから、馬だからとか犬だからとか、ではなく、個々をまた考えてあげるべきで、その上で人間は、言葉で通じ合えない相手の気持ちをイメージすることが大切なんじゃないかって思うんです。

うちのコたちは北海道で生まれ、放牧で育ち、馬着を着たことがありませんでした。
なので厩舎で暮らす今でも、馬着は着させていません。
そのかわり9月頃から徐々に毛を伸ばし、真冬にはもっこもこのぬいぐるみのようになり、寒さに耐えらる体に変わっていくのです。

でも、温度管理のされた厩舎で馬着を着て過ごしてきた馬は真冬でもそこまで毛を伸ばしません。その上満足な食事も与えずにいきなり極寒の地で昼夜問わず放牧すれば、いくら寒さに比較的強いとされる馬でも体は順応できず、悲鳴を上げます。

わたしたちでもコートを着ていたのにある日突然脱がされてTシャツのまま冬を越せと言われたら体を壊しますよね。
このように環境に応じて体を作っていくため、同じ馬だからといって急に違った環境下におくと不調を起こしたりもするんです。
きっとそんな状況は、馬にとってとても苦しいことなんだと思うのです。ましてや仲間もおらず、たったひとりぼっちで放っておかれたらどんな思いをするのだろうか。

命あるもので少なくとも感情(と表現していいのか定かではありませんが)を持ち合わせた生き物である以上、 痛いことや辛いこと、苦しいことは、私たち人間とおんなじなのではないでしょうか。
だから、自分がされて嫌なことはしないほうがいい。
もしも痛みや苦しみ、辛さを与えざるを得ない場合は、正当な理由を私たちは持つべきだし、彼らの気持ちを感じ取る必要があると思うのです。

いつだったか、食肉にするために命に終止符を打つ仕事を持つ方達は、いかにすれば苦しませずに逝かせられるかに身を削る思いで取り組んでいると聞いたことがあります。

じゃあわたしはなにをすればいいのだろう。

もしもわたしが大金持ちだったらできる限りの動物が暮らせる巨大な場所を作りたい。
でもわたしは大金持ちでは現在ありません。

だから今はまだ、ビバ、シル、ハクに苦しむ思いをさせないことしかできません。
いや、それができたらすごいことだと思っているんです。
だってボスは幼い頃から馬と暮らしてきた経験値と高い技術を持ち合わせていますが、わたし自身は、馬という生き物の勉強を含め、日々手探りの中ウマコたちとのベストな関係を模索しているのだから。
こんなわたしが彼らを幸せにしているのかと問われれば、わからない、とこたえるしかありません。

ただ、人間のやり方一つで生き方を左右され、翻弄され、果ては命の決定権まで奪われてしまうのが人と共存する動物です。
そして、そんな動物たちだって人間とおなじでお母さんから産まれ、お母さんのそばで無邪気にはしゃいだ時期が一瞬でもあったはず。
それを思うからこそ、動物に対して思いやりを持ちたいと思うのです。
それがエゴであろうとなんであろうと、思いやりを持たないよりマシだと思うのです。

そう思って接するのが悪いこととは思えないのです。

少なくともわたしはそう思いながら、日々あのコたちと暮らしています。
そして馬に限らず、生きるもの全てに対してそういう気持ちで接していきたいと思っているのです。





 

なだめ方1
なだめ方2


ビバの幼少期の悪戯は以前紹介しましたが、
まあこの頃は今以上にわがままで我が強く、でも怖がりでと盛りだくさんの男のコでした。
仕事中もイヤイヤが始まり、聞き分けの悪いビバにほとほと困り果てていたある日、子供をあやすように「シー(静かに)」というのを「スィースィー」とウイスパーボイスでささやいてみたのです。

するとなんてことでしょう。
わたしの腕の中に顔を埋めて大人しくなるじゃないですか。

こりゃいいやとばかりに、ことあるごとに「スィースィー」となだめ続けてきたのですが、いつの頃からか、すっかり大人になったビバには通用しなくなっていました。

スィーと言った瞬間は一瞬動きを止めるのですが、「ハァァぁ〜」と言わんばかりの眼差しを向けてくるのです。

馬も人も大人になるってこういうことなのね、としみじみと思い知るのでした。。。

 

怒られると1
怒られると2



うちのコたちはとにかくよく叱られます。
その分アメが発動される回数も多いのですが、ボスのムチは日々シュピシュピと振りかざれているのです。


さて、そんな叱られることの多いウマコたちですが、それぞれで反応が異なります。

まずビバ。
彼はボスに怒られると真っ先にわたしの姿を探して逃げてきます。
ボスに捕まってさらに叱られるよりは、わたしに捕まったほうがマシだと思っているのです。
そしてしおらしい様子で近づいてくると、うるうるとした目でこちらを見つめ、鬼がいる、と訴えかけてきます。

次にハクちゃん。
彼はボスに叱られるとキョドります。
一体なにを怒られているのだろうか、といった様子でキョトンとした顔で固まるのです。
その様子はこんな感じ

最後にシル。
彼女は一番ビビります。
そしてビビったあと、しおらしく近づくと、腕をペロペロと舐めるのです。
おそらく普段、わたしがそのように甘やかしているからでしょうか。
そうすれば許されると思っているようですが、ボスには微塵も通用しない。。。

それでも懸命にお愛想を振りまくシルちゃんがあまりにも可愛らしくて、微笑みながら眺めているのですが、同時にそれは、人間と共存する中で選んだ生きる手段でもあるように思えるのです。
だから、一生懸命に生きる彼らの姿を見ていると、命を預かり共に生きる人間として、それに応える必要があるなと改めて感じるのでした。


 

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